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哲学だぁ。。。 

村野瀬玲奈さんと喜八さんの書いた記事が哲学的だと思ったので掲載します。

村野瀬玲奈の秘書課広報室から


「ルール」が破られるときに社会の発展がある。
ジャンル : 政治・経済 スレッドテーマ : 国旗と国歌


学校の式典での国旗国歌「強制」問題に限らず、「ルール」を守れという声は常にあります。そういう「一般論」は「一般論にとどまる限り」、「一般的には」たしかに間違っていません。

しかし、たとえば、こんなふうに考えてはどうでしょうか。

古代ローマ帝国にあった奴隷制。当時の「ルール」では奴隷は支配階級には絶対服従という「ルール」がありました。反逆した奴隷は死罪、という「ルール」もあったでしょうね。当時の奴隷たちがずっと「ルール」を守っていたら、今のイタリアはどうなっていたでしょうね。今でも奴隷制国家だったことになりますね、「ルールを守れ」と言うみなさま。古代ローマ帝国で奴隷が武力による反乱を起こして「ルール」を破ったことによって、古代ローマ社会は進歩したのです。「ルール」を破ることなしには古代ローマ社会は進歩しなかったのです。

アメリカにあった黒人奴隷制も同じように考えられるでしょう。奴隷制という「ルール」を守っていたら、今もアメリカは奴隷制国家だったのでしょうか、「ルールを守れ」と言うみなさま。アメリカで奴隷制という「ルール」が破られたとき、アメリカ社会は進歩したのです。「ルール」を破ることなしにはアメリカ社会は進歩しなかったのです。

フランスではどうでしょう。1789年のフランス革命前には、身分制度という「ルール」がありました。当時のフランス人、特に平民はその「ルール」を守り続けたでしょうか。いいえ、フランス革命によって、その「ルール」は破られました。当時のフランス人たちが「ルール」を破らなかったら、フランスは今でも身分制階級社会だったでしょう、「ルールを守れ」と言うみなさま。そして、その「ルール」が守られなかったとき、フランス社会は進歩したのです。「ルール」を破ることなしにはフランス社会は進歩しなかったのです。

おまえの出す例は極端すぎる、と言う方もいるかもしれません。しかし、これらの例は歴史上人類が経験したことです。社会の現実です。「ルール」を破ることこそが確かに社会の進歩に貢献したのです。そのことは否定できません。

まあ、ちょっとずるい言い方をしたかもしれません。言い直しましょう。私がこれらの例で言いたいのは、「ルールを守れ」と言う時には、その「ルール」が果たして妥当なものなのか、正当なものなのか、ということを必ず考えなければならないということです。「奴隷制」という「ルール」は正当なルールなのか、と。「身分制」という「ルール」は正当なルールなのか、と。

当時はそれらの「ルール」は支配者によって作られ、それが守るべき規範と考えられ、奴隷自身や平民階級自身にも共有されていたかもしれません。しかし、その時代にその「ルール」がおかしいと考えて、自分の身の危険をおかして、あるいは命をかけてその「ルール」に逆らった人々がいたから歴史は進歩したのです。今の目から見たら、当時の奴隷制、身分制という「ルール」はおかしかった、そう断言しても、その断言に反対する人はいないでしょう。つまり、当時、「ルール」に逆らった人たちは歴史的にみて正しかったのです。

ですから、この記事の題名はこう言う方がよいかもしれません。「ルール」が合理的な理由で破られるときに社会の発展がある、と。

妥当でないルール、正当でないルールが守られずに何らかの形で破られるとき、そこには社会の進歩があります。人間社会の進歩は、妥当でないルールや正当でないルールを見つけ出してはそれを破ることから始まります。妥当でない「ルール」、正当でない「ルール」を守るのは社会の発展を生み出しません。なお、この「ルール」という言葉は「前例」とか「常識」とか「習慣」とか「伝統」とか「マナー」と言い換えることもできるでしょう。

「ルールを守れ」とだけ考えるみなさん。みなさんがたが語っている「ルール」の中身を真剣に問わないまま、あるいは明らかにしないまま「ルールを守れ」とだけ言う前に、ちょっと考え直してみませんか。



付録

●教育基本法の再改正を求める会
世界の「国歌斉唱」事情 [学校と子ども]
http://kokoro-no-jiyuu.blog.so-net.ne.jp/2008-04-08

●Like a rolling bean (new) 出来事録
根津先生免職回避!(市民の相互監視とコントロールは容易だと思わせることの効果〜例えばネット規制)
http://ameblo.jp/garbanzo04/entry-10084536706.html#c10114255017


「ルール」が非合理的な理由で破られるときに社会の退行がある。
ジャンル : 政治・経済 スレッドテーマ : 国旗と国歌


前回の記事、「『ルール』が破られるときに社会の発展がある。」の続きです。前回の記事をさらに展開します。

たしかに、ルールはいろいろあります。日本の社会、というか、通常の民主主義国で一番重要なルールは何かといえば、次の三つですね。

国民主権。基本的人権の尊重。平和主義。

これは憲法の三大原則という名の「ルール」。他の「ルール」よりも上位にあり、優先されるべき「ルール」。人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果として、過去幾多の試錬に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された「ルール」。

この「ルール」に違反する「ルール」は作ることができない。それも「ルール」。


日本国憲法第九八条
1 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

(引用ここまで)

国旗国歌の指導という名の「強制」行為は、思想・良心の自由という「ルール」に抵触します。


日本国憲法第一四条
1 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

日本国憲法第一九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

(引用ここまで)

ちなみに、世界人権宣言にもありますね。


世界人権宣言第二条
1 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

(引用ここまで)

国旗国歌の成り立ちについて、多様な情報を教え、自ら考えさせることは「教育」の範疇に入りますが、国旗国歌に対する特定の態度を一方的に強要することは「ルール」の誤った使い方であると考えられます。なぜなら、憲法という上位法という「ルール」に違反するからです。また、国旗国歌に対する考えや態度は個人の思想信条に任されるわけで、国旗国歌への特定の態度を一方的に強要することは非合理的な「ルール」といってもいいと考えられます。あるいは、上位法を破った「ルール破り」ともいえるでしょう。だからこそ、昨日の記事で紹介したリンクでもはっきりしているように、世界の多くの民主主義国では国旗国歌に特定の態度を強制する儀式が行われていないわけです。そもそも入学卒業に際しての式典もなく、式典で何かを教えようとはしていないということでもあります。

いえ、そもそも、日本の国旗国歌法だって、「国旗はこれこれ、国歌はこれこれ」と定めるだけの法律で、「強制してよい」と定めてはいません。実際、国旗国歌法制定当時の野中広務官房長官が「東京の処分は間違い。私は答弁で、人の内心まで入ってはいけないと言った」と述べていました(2008年3月26日毎日新聞「記者の目」で改めて指摘されています)。そのような法律をもとに強制が可能だという法律的根拠はなんなのでしょうか。

すると、「通達」で「国旗国歌への敬意を教えると定めている」と言って反論した気になる向きもあるかもしれません。(東京都の10.23通達など。)しかし、「通達」は憲法、法律、条令などよりもさらに下位にあり、公僕たる公務員が主権者たる国民(と日本に住む外国人)に向かって「通達」によって何でも好きなように命令・強制してよい権限を持っていると考えてもらっては困るのです。上位法の支えのない「通達」を上位法より優先した政策は主客転倒と呼ぶべきですね。

この条文を無視する人たちがけっこういることを経験上知っていますので、何度も繰り返しますね。


日本国憲法第九八条
1 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

(引用ここまで)

上位法を破った「ルール破り」による強制が何を意味するかといえば、思想・良心の自由の侵害であり、信条による差別ということになります。上位法より下位法を優先させてかまわないという思想は、公務員や政治家や政府の気まぐれが国民主権よりも上位にあるとする思想です。そのようなことが平気で行なわれる社会は国民主権に価値を認めない非民主的社会であり、北朝鮮のような全体主義社会です。そのような「強制」を単なる式典に持ち込むことが無理なのであり、不適切なのです。そのような強制はパワーハラスメントと言ってもいいものです。

「ルール」を守らないのは、国旗国歌に起立しない人々の側ではなく、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」といった上位ルールを無視して「通達」などを根拠に国旗国歌への特定の態度を強制する側である、と言うこともできます。

もちろん、このほかにも、誤った「ルール」作りや、「ルール」の誤った使い方はいろいろありますので、「国旗国歌強制」の話だけにとどめるのはもったいないし、この機会にぜひ強調しておきたいと思います。

一つ、憲法にうたわれた生存権に違反する、医療負担関連の法律を例にとりましょう。この4月から実施された、後期高齢者医療制度、別名、長寿医療制度という「ルール」は、高齢者に医療を受けさせないようにするための施策という性質を帯びています。だからこそ、えぼりさんのお友達のいろいろな国籍の外国人たちによって「国による虐殺」という言い方がされたのです。

この法律、後期高齢者医療制度、別名、長寿医療制度という名の「ルール」に従わなければいけないのでしょうか?いいえ、その「ルール」は憲法25条という上位法、つまり優先的「ルール」に違反していると考えられますので、効力を有しない、こう言うこともできます。


日本国憲法第二五条
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

(引用ここまで)

この後期高齢者医療制度、別名、長寿医療制度は、憲法という上位法、つまり優先的ルールを非合理的な理由で破っています。私は、「ルール」が非合理的な理由で破られるときに、「法の支配」は崩壊し、社会の退行が始まる、と考えます。現に、日本では社会の退行、崩壊が始まっていると私はみています。

同じようなことが、「障害者自立支援法」(という名の「障害者負担増法」)についても言えるでしょう。やはり上位法である憲法の趣旨に反した法律です。

ほかの例としては、たとえば、政治倫理についてはどうでしょうか。1985年6月25日に議決された政治倫理綱領というものがあります。これも一種の「ルール」であると考えられます。その内容は、民主主義社会では政治の透明性や公正性や公平性を確保し、政治に対する信頼を高めるという趣旨に沿ったきわめて正当なものであり、上位法である憲法とも整合しており、異議を唱える種類のものではありません。

では、政治家はこの「ルール」、上位法で担保された民主政治の「ルール」を守っているでしょうか。私は守っていないと思います。実例はそれこそ毎日のようにマスメディアにあふれています。贈賄、収賄事件、選挙での買収など、法律で禁止されている行為が政治家によって繰り返されてきました。これこそがまさに「ルール」破りなのです。まさに、政治倫理にかかわる「ルール」が、憲法という上位法に反する非合理的な理由で破られるときに、「法の支配」は崩壊し、社会の退行が始まっているのです。

そろそろ結論にいきましょう。「ルールを守る」という一般論だけを繰り返すことは時に無意味、時に有害だと前回の記事で示唆したわけですが、今日の記事の結びは、「ルールどうしの上下関係や優先度のちがい」を無視した非合理的な理由で正当な「ルール」を破ることはさらに有害だということです。

もう一度繰り返します。

「ルール」が合理的な理由で破られるときに社会の発展がある。

「ルール」が非合理的な理由で破られるときに社会の退行がある。



付録1

国旗国歌の強制という「ルール」がおかしいと抗議する方法について考える手がかりとして、一つの意見を以下にメモ。私もおおむね賛成です。

●la_causette
鶏と卵
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2006/10/post_6e13.html のコメント欄から

雇用主等の方針に反対する労働者たちが法令等に違反しない範囲内でその意思を(顧客等にも見えるように)勤務時間中に表明するということ自体は西側先進国ではしばしばあることであって、そのことについて周囲はあまり「見苦しい」とは思っていないのではないかという気がします。
 もちろん、上司の言ったことは、如何に不条理であっても、部下はこれに従う(少なくとも争っている姿は外には見せない)のが美しい姿だと捉える全体主義思考の強い方もおられるとは思いますが、美醜の問題は、幾ら話をしても決着が付かないと思います。
Rédigé par: 小倉秀夫 | le 06/10/2006 à 06:48 PM




●la_causette
パワハラの擁護者
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2006/09/post_fefa.html

今回の事件に関しては、教員に対する非難を維持しようと頑張れば頑張るほど、「パワハラの擁護者」みたいになるので、ここのブログの粘着君も大変ですね。



付録2

●教育基本法の再改正を求める会
東京の先生からのメール [教育基本法] [編集]
http://kokoro-no-jiyuu.blog.so-net.ne.jp/2008-03-16



村野瀬さんのこの記事は、題名は分かるんですが頭の悪い私は上手く理解出来ません。
ぼちぼち理解出来る様に努力します。
哲学的だと感じます。



三島由紀夫

昭和45年(1970)11月25日、「文豪」三島由紀夫が私設軍隊「楯の会」メンバー4人とともに、東京市ヶ谷《いちがや》の陸上自衛隊東部方面総監部総監室を占拠し、自衛官たちに決起を呼びかけました。しかし自衛官たちはこれに応じず(当時の映像では「バカヤロー」などヤジの声が多く聞こえる)、三島由紀夫と「楯の会」メンバーの森田必勝が割腹自決し、「クーデター」計画は完全な失敗に終わりました。これが、いわゆる「三島事件」です。

当時、私(喜八)は小学校4年生でした。「三島由紀夫」がどういう人だか、まったく知りませんでした。ませた同級生男子が深刻な顔をして「三島が自決したな」と声をかけてきたときも、「ミシマって誰?」と返答したくらいです。なお、当時の新聞には介錯により斬り落とされた三島由紀夫と森田必勝の「生首」の写真が掲載されたそうです。私はこれを見ていません。おそらく、両親が見せないように配慮してくれたのだと思います。この点、父と母には深く感謝しています。同級生の多くは生首写真を見たようでしたが、別に羨ましいとは思いません。

その後、中学生になってから「三島文学」に触れ、その豊穣な世界の虜《とりこ》となりました。最初に読んだのは新潮文庫版の『花ざかりの森・憂国』であったと記憶しています。「花ざかりの森」には「なにがなんだか分からないけど凄い!」という感想を抱きました。次に手に取った三島作品が長編小説『沈める滝』であったか『音楽』であったかはよく覚えていません。いまになって思うと中学1〜2年生くらいでこれらの作品をちゃんと鑑賞できたかどうかは至って心許ないのですが、とにもかくにも喜八少年は三島由紀夫に入れ込みました。

そして巡り合ったのが『仮面の告白』。これは本当に凄い、凄まじいばかりの傑作です。「戦後」日本文学史において最も素晴らしい小説のうちのひとつだろうと確信しています(もっとも、私にそのようなことを言う資格があるかどうかはまったく自信がありませんが)。『仮面の告白』の最後の1行を読んだときの痺れるような思いは、いまでも鮮明に覚えています。

先にも『靖国 YASUKUNI』のエントリで書きましたように、私(喜八)が感銘を受けた三島作品は『仮面の告白』『盗賊』『沈める滝』『音楽』『美しい星』『獣の戯れ』『午後の曳航』『花ざかりの森』などです。このほか短編小説にも素晴らしいものが少なくないと思いますが、調べてみないとタイトルが思い出せません。先日、ちくま文庫の『文豪怪談傑作選 三島由紀夫集』を読んだところ、「切符」というモダン・ホラー短編が素晴らしいと思いました。「三島由紀夫は天才的に上手い作家だなあ」と改めて痛感しました。

ところで、上の三島作品リストには代表作といわれることも多い『金閣寺』と『豊穣の海』四部作が入っていません。これは単純に中高校生当時の私が、これらの作品を「面白い」と感じなかったためです。もしかしたら、いままた読み返してみたら、違う感想を持つかもしれません。かつて田辺聖子さん(作家)の、『金閣寺』は大傑作だけれど『豊穣の海』四部作はそれほどでもない、という主旨の文章を読んだ記憶があります。『豊穣の海』に関しては私も田辺聖子さんの意見を支持します。

小中学生のころは学校の先生から「愛読書は?」ということを授業中よく聞かれました。クラスの生徒がひとりひとり起立して先生の質問に答えます。私が「三島由紀夫です」と答えると、多くの先生が「ああ、よく分かるよ」といった苦笑を浮かべるのが、大変に不満でした。私はハシコイ生徒でしたので、先生方《せんせいがた》の思考はよく分かります。「『三島事件』で三島由紀夫にかぶれたコドモがここにもいる」と先生は考えておられたのでしょう。しかし、ぜんぜん違うのです。

小学4年生のころから現在に至るまで、私は「三島事件」にはそれほど深い興味を抱いたことはありません。中学生の喜八少年はあくまで「三島由紀夫の文学作品」を愛していたのです。しかし、大人からは「こんな子供に三島由紀夫の小説が理解できるわけがない」と思われていたのでしょうね。たしかに自分自身が大人になった今は教師たちの「偏見」も分からないではありません。しかし、おなじような過ち、すなわち無意味に子供を見下すような倣岸さは持たずにおこうと自分に言い聞かせています。子供は大人に負けず劣らず高い理解力を持っていることが少なくない。多くの人は大人になると、この「真理」を忘れてしまうようですが・・・。

ものすごく大雑把にいうと、私は三島由紀夫の初期から中期にかけての作品に感銘を受けることが多いようです。そして、晩期作品の多くにはあまり心惹かれない。と言っても晩期作品群を否定するほどでもない。こういった傾向があります。これまた物凄く大雑把にいうと、三島由紀夫がボディビルや各種武道・格闘技を始めてからは、三島文学の内容が変化していった。その変化は私にとっては好ましいものではなかったということができるかもしれません。

これは「ないものねだり」でしょうけれど、三島由紀夫がボディビル・格闘技を開始した後も、文学においては平安王朝絵巻のような雅《みやび》な世界を追求していってくれたなら、とは思います。筋肉を鍛え日本刀やミリタリズムを愛しながらも、小説に関しては絢爛豪華な「三島ワールド」を展開してくれたなら、どんなによかったことか。ひとりの三島ファンとしてこんなことを強く思いますが、これはあくまで「ないものねだり」です。

ちなみにボディビルで鍛えた三島由紀夫の「肉体」を誹謗中傷する声は今も昔もあります。「三島由紀夫が自慢げに露出していた身体は実際には非常に貧弱なものであった」というような意見です。これには一理あります。たしかに三島の身体は「ボディビル後」にも、絶対値としてはそれほど立派なものではありませんでした。コンテストに出場するようなボディビルダーと比較すれば「貧弱」という形容もあながち間違いではありません。しかし、それは意地の悪い意見であることも間違いない。

身体を鍛え始める前の三島由紀夫の身体は文字通り「骨と皮」ばかりの大層に「ひ弱」なものだったのです。貧弱な肉体を10年以上の歳月をかけて少しずつ少しずつ鍛えていった。その結果(ボディビルダーとしてはともかく)一般人としては立派な身体になった。これは誰にもできることではないでしょう。「文豪」の名がふさわしい大作家であると同時に大蔵省の能吏でもあった三島由紀夫らしい「刻苦勉励」がボディビルにおいても実を結んだ。このように評価するべきだろうと私は思います。

後期・晩期の三島作品にあまり感銘を受けず三島由紀夫の「政治思想」にもそれほど共感を覚えない私ですが、1人の鍛錬者として倦《う》まず弛《たゆ》まず地道に筋力トレーニングを実施していった平岡公威(三島由紀夫の本名)の姿には心を打たれます。一般に考えられているよりも、ひ弱な体質の人が筋肉をつけるのは困難なことだからです。平岡公威・三島由紀夫はその困難な事業を不屈の闘志でやりとげました。三島由紀夫が「改造後」の肉体を見せびらかす傾向があったのは事実でしょうけれど、ひ弱な身体の持ち主として少年期・青年期を過ごした反動であると思えば、ムキになって三島の性向を批判する気にはなれません。

ところで、この駄文を書いているうちに思い出しました。三島作品のうちで中高校生のころの私が何度も何度も読み返した1冊がありました。それは『文章読本』です。中公文庫版の『文章読本』はある時期私の「バイブル」といっていい本でした。「文学少年(?)」であった私は友人たちと「同人誌」の真似ごとのようなことをしていました。そして、ほぼ唯一の「文章の先生」が三島由紀夫の『文章読本』だったのです。長い間すっかり忘れていましたが、思い出しました。

こうやって弱小ブログでシコシコと文章を書いて発表している現在の自分にも『文章読本』は再び「先生」となってくれるに違いない。これには確信があります。三島由紀夫は超絶的な技巧をもつ大小説家であると同時に、きわめて明晰な評論家であり、おそらくは素晴らしい教師にもなれる人であったからです。『文章読本』を読み返して、私も今から「文章修行」を始めようと思います。この「喜八ログ」をいささかでも「進化」させようと思います。それにしても、三島由紀夫が早世したのは本当に残念なことでした。大正強調文14年(1925)生まれの三島が存命であったなら、まだ80台前半。言葉の真の意味における「先生」として、日本社会に多大な貢献をしてくれたことは間違いないでしょう。

三島由紀夫の「荒ぶる魂」に鎮魂の祈りを捧げます。



私としては三島由紀夫が東部方面総幹部を乗っ取り割腹自殺したことに評価出来ません。もしこれで英雄扱いだったら現在の自衛官も同じ事をするんじゃないかと危惧します。
喜八さん、何か水を差してすみません。



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