喜八さん。なるほどですね。
喜八さんの記事を読んで、なるほどと思いましたので、その記事を転載させて頂きます。
内田樹さんの「議論」論
内田樹さん(思想家・武術家)の「論争・議論」論が非常に興味深く、きわめて実効的だと思いました。「論争(議論)は勝って益なし、負けて益なし。何言われても、相手にしないで聞き流す。逃げる」。これが内田流兵法の奥義《おうぎ》でしょうか(※)。 (※「戦わない・無視する・受け流す・逃げる」は《現実主義的》兵法における最も重要な戦術である。と、ナマクラ流ヘタレ派兵法者・喜八は考えとります) 内田樹さんと三砂ちづるさん(疫学者)の対談本『身体知』バジリコ(2006)から、内田発言の一部を引用させていただきます。 (★引用開始★) 内田 論争って、勝てば恨みを買うし、負ければ気分がわるい。どっちに転んでもいいことがない。学校の教授会で議論をしていて、いつもそう思いますね。むかしものの弾みできつい言葉で批判してしまったことがあるんですけど、その時は論争レベルでは相手を黙らせたわけですけれど、結果的には、それが尾をひいて、五年経っても、一〇年経っても、何かあるたびにその人がその時のことを恨んでぼくの足をひっぱる。そのせいで、いろいろなプログラムが停まったり、根回しによけいな手間暇をかけなくちゃいけなくなった。だから、トータルでは大損しているんです。目先の論争に勝っても、結局いいことなんか何もないです。 ぼくは本を出しているせいで、ときどきデリケートな問題について論争を挑まれることがあるのですが、全部逃げてるんです。勝って益なし、負けて益なしだから。何言われても、相手にしないで聞き流すのがいちばんです(『身体知』48頁)。 内田 ほとんどのことって、まわりの人の同意や支持がないと実現できないことじゃないですか。議論してやりこめたって、それで計画の実現が早まるということはあまりないというか、ほとんどない。 一時期「ディベート教育」を日本の学校でも導入したらという議論がありましたね。ナンセンスだと思うんですよ。二つのチームに分けて賛成、反対で議論しあうなんて。現場でいちばん大切なのは、相手をやりこめることではなくて、いかにして和解しがたい対立を合意形成にもっていくかじゃないですか。たいせつなのは「論破」することじゃなくて、「説得」することでしょう。ディベートと合意形成の訓練とは全然違う。ディベートは、むしろ対立点を明示化する訓練でしょう。そんな訓練を積んでも現実社会では何の益もない。「口の減らない厭なやつだ」と思われるだけで。もともと、合意形成の技術は日本の伝統なんだから、伝統はたいせつに受け継ぎましょうよ(『身体知』49-50頁)。 内田 ヨーロッパ的なディベート文化というか、対立をいとわない文化の根には「真理は必ず普遍化する」、「正しい主張はいつかは必ず全員に受けいれられる」抜きがたい真理信仰があると思うんです。でも、ぼくたちはなかなかそういうふうには考えることができない。むしろ、ぼくが前提にしているのは、邪悪なやつは邪悪なままで、矯正のしようがないとあきらめることです。邪悪な人間を正道に戻すというよりは、邪悪なものが及ぼす被害をどうやって最小化するか、そちらのほうにリソースを集中したい。なんだか性悪説みたいですけれど、この非西欧的なリアリズムの根本には「他者は不可知だ」という断念があると思うんです。 逆に思われているようですけれど、本当のことを言うと、ヨーロッパ的な個人主義というのは、ぎりぎりのところでは「人間は真理の審級において最終的に合意に達する」という絶対的な真理についての信憑に基づいていると思うんですよ。そうでなければ、あれほど激しく他人を攻撃できないと思う。 でも、日本人は、人間は腹の底では何を考えているかわからないという恐怖感に基づいて社会を作っている。わからないからこわい、こわいから「本音」はできたら聞かずにすませたい。表面的な「建前」と「あれをなにして」みたいな曖昧な表現でごまかして。ぼくはむしろ日本的なそういう合意形成戦略のほうに人間の本質的な不可知性に対する「恐怖」と「敬意」を見てしまうんです。「他者とは何か?」と正面切って論じられる文化と、「他者とか、そういう話はなしにして、ま、お茶でも……」という逃げの文化では、どう見てもあとのほうが他者の他者性に対する敬意とはいわないまでも畏怖の感覚は備わっているんじゃないか、と。そんなふうに思うんです(『身体知』50-51頁)。 (★引用終了★) |
この記事を読んで、
『白か黒か』という考えよりも『グレー』でもいいじゃないか。と思いました。
社会の中で、「白黒」つけれることは少ないと思いますし、かえって「グレー」であった方が
いい場合もあると思います。
考えさせられる記事です。
もう一つ
偽善者
「偽善者」というのは私(喜八)自身のことでありまして、他の人に向けての言葉ではありません。 とある頭のいい方(皮肉ではありません)から「偽善者」の称号(?)をいただいたので「なるほど、自分は偽善者である。So What?」と嘯《うそぶ》いていたところ・・・。 「わんばらんす」(心優しき)ココロさんから「冗談でしょう?」と慰めていただいたので「いえ、まったく冗談ではありません」とお答えしました。これは自己卑下でも強がりでもなくて、まったくの本音です。 「偽善者」という言葉で思い出すのは、もう四半世紀も前のこと、大学生時代のエピソードです。私は級友(男子)と2人で電車に乗っていました。車内はそこそこに混んでいましたが、我々は運良く座っていました。 とある駅で80歳前後と思われる高齢の女性が乗車してきました。すかさず私は女性に席を譲りました。これは「お年寄りには親切にしなければならぬ」なんてアタマで考えてのことではありません。身体が自然に動く、といった反射的行動です。というのは・・・。 「喜八家」の教育方針は「超」放任主義に近く、子供のころの私は両親からアレコレうるさく言われた記憶はあまりありません。とはいえ、放任主義的な両親もいくつかの点では厳しいのでした。 すなわち、 電車の中ではお年寄りや身体の不自由な人に席を譲れ。 弱い者や年下の子をイジメるな。 むやみにゴミを捨てるな。 が、我が家の「家訓」だったのです。子供のころから現在に至るまで、私はこの家訓を守っています。 大学生時代に話は戻ります。数駅先で、私が席を譲った女性が降車しました。私に対して「ありがとうございます」とご丁寧に頭を下げながら(青年喜八は「いえ、とんでもありません」と顔を赤らめます)。女性が去った後・・・。 級友(男子)がいきなり怒り始めたのです。「偽善的なことをするな!」と。 彼の言い分は、「お前(喜八のこと)は普段から老人に席を譲ったりしているのか?(日常的にしている) オレと一緒にいるから、いいところを見せようとして席を譲ったのだろう(一方的な決めつけです)。そういうのを『偽善者』というのだ!」でした。 現在であれば「偽善者」と言われても「たしかに自分は偽善者である。So What?」と嘯《うそぶ》くだけの私ですが、当時はまだ若かったので、級友の言葉には大層腹が立ちました。しかし、若いころから腹黒くもあったので、特に反論はしませんでした。腹の中では「彼(級友)は親から『お年寄りや身体の不自由な人に席を譲れ』という教育は受けなかったのだな。可哀想に・・・」と思いつつ。 話は「現在」に戻ります。いまでは私も50歳近いのだから、電車で席を譲るのも「卒業」してもいいかな? とも思うのですが、先日も足の不自由な高齢女性に席を譲りました。たまたま、その直前に隣に座っていた(未知の)小学生に電車の乗り換えについて質問されたばかりだったので、「大人として、小学生に『いい見本』を示すことができた(むふふ)」と自己満足を覚えもしました(笑)。 その数日後、城内実さん(前衆議院議員・通信制高校教員)のブログ(「☆お知らせ☆ みわちゃんねる突撃永田町!!」)で次のようなコメントを目にしました。 小さな出来事 前回の選挙が終わり、まだまもない頃、私の知り合いが20名くらいの会合があるので、城内さんを呼ばないかと誘われ、出席していただいたことがある。その日は城内さんにはめずらしく連日の会合疲れもあり風邪ぎみで体調をくずされていた。帰りの駅に通じるエレベーターに乗ったら大変込んでいた。最後に小さなこどもの手をひいた若いお母さんが乗ってきた。そのとき城内さんがこちらへどうぞ。と間髪いれずに場所を譲った。当たり前のことかもしれない。ただそのタイミングが彼の人間としての優しさをかいま見、それからますます先生を応援したくなったしだいであります。 思わず感動しましたね。「城内実さんを応援していてよかった!」と強く思いました。おそらく城内実さんもご両親から「お年寄りや身体の不自由な人に席を譲れ」という教えを受けて育ったのでしょう。だからこそ「小さなこどもの手をひいた若いお母さん」に「間髪いれずに場所を譲った」のでしょう。城内実さんの人としての歴史を垣間《かいま》見るような思いがありました。 ところで、大学生時代に級友から「お前は偽善者だ!」と罵倒された私は「偽善」についてアレコレと考えました。「そもそも偽善とはなんであろうか?」「偽善者であって何がいけないのか?」。などなど悪いアタマで沈思黙考した結果・・・「偽善者であっても、別にかまわない」という結論に達しました。大切なのは「善を為す」ことである。「偽善」か「真善(?)」かは問題にならない(少なくとも私にとっては)。 平たく説明すれば次のようになります。 ここにA氏・B氏という2人の人物がいたとします。A氏・B氏ともに「福祉」や「慈善」には大いに興味があります。しかし、2人の「行動」にはかなりの差異があります。すなわち・・・。 A氏には「『エライ奴だ』と人から褒めて欲しい」「キャバクラのお姉さんたちにモテたい」「某団体の会頭になりたい」「勲章が欲しい」という強い願望があります。これら不純な(?)動機にしたがってA氏は日々「福祉活動」に精をだしています。 B氏は純粋に(?)社会福祉を考えています。ときには分相応の募金をします。福祉について色々と考え発言も積極的に行ないます。しかし現実の「福祉活動」には興味を持ちつつも、ほとんど行なっていません。 A氏とB氏。はたして、どちらが「本当の善人」なのか? これに対しては人それぞれの答えがあるでしょう。唯一絶対の回答はないと思います。各人が自身の好み・性格・環境などにしたがって答えをだしていけばいいのですが・・・、私(喜八)の「好み」としてはA氏のような生き方のほうが好ましいと感じます。たとえ、人からは「偽善者」と言われようとも、現実的行為としての「善」を為す。このほうが cool だという感性が私にはあるようです(とはいえ、現実の私はB氏に近い生き方をしてきましたけれどね)。 人生もいよいよ残り時間が見えてきたわけですから、これからはA氏的な行動主義に転じていこうかな、なんて思っています。と言っても「キャバクラのお姉さんたちにモテたい」「某団体の会頭になりたい」「勲章が欲しい」といった純粋な(?)動機はありません(笑)。特定の女性にモテるためには「偽善でも何でもかまわないから、とにかく善を為す」行き方は有利に働くかな? といった目論見はあります(腹黒いので)。 さて、この辺でボンクラながらも「結論」めいたことを・・・。 「偽善者」でかまわない(一向に)。 偽善者のままで善を為そうと努力する。 「真善者=善人」になろうとはしない。 悪の部分を大いにもつ自分(喜八)が「真善者」になろうとすれば逆に悪を為す可能性が高い。 善人であろうとする者こそ却って悪を為すという「逆説の罠」は避けておきましょう。 なんて愚考する「偽善者」喜八でありました。 |
A氏とB氏、どちらが本当の善人か?
考えさせられました。
ありがとうございます。
喜八さん。
社会福祉を実践する人間は、人間性が大切だと再認識しました。
- [2008/06/29 06:37]
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Comments
ありがとうございます
eye sees truth さん、こんにちは〜。
幣ブログ記事を紹介いただきまして、ありがとうございます!
ところで、私もOut Door Sportsが趣味です・・・というよりは、「かつては」趣味でした。
(このごろはもっぱらインドア派です。汗)。
幣ブログ記事を紹介いただきまして、ありがとうございます!
ところで、私もOut Door Sportsが趣味です・・・というよりは、「かつては」趣味でした。
(このごろはもっぱらインドア派です。汗)。
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